IAIIAI:Internet media

「アイ・エイ・アイ」:IAI

東京国立博物館 平成館
東京国立博物館 平成館
〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9


HASEGAWA TOHAKU: 400th Memorial Retrospective

没後400年 [特別展] 長谷川 等伯
〜 国宝3件、重要文化財30件、重要美術品1件を含めた約80件の名品を一堂に、史上最大規模の大回顧展です。 〜
本展は、水墨画の最高峰と称えられる国宝 《松林図屏風》 (東京国立博物館)、金碧障壁画の至宝とうたわれる国宝 《楓図壁貼付》 (京都市・智積院) をはじめとした、代表作約八十件をご覧頂きます。空前の規模で結集したこれらの作品を通し、傑出した才能を発揮した一人の絵師の生涯を皆様にご紹介いたします。

会期: 2010年 2/23(火)〜3/22(月・休) 展覧会は終了しました。
開館時間: 9時30分〜17時 {金曜日は20時まで、土・日・祝日は18時まで)
※いずれも最終入館は閉館30分前まで
休館日:毎週月曜日(ただし3月22日(月・休)は開館)
会場:
東京国立博物館 平成館
(上野公園)
(巡回展:2010年 4/10〜5/9 京都・京都国立博物館)

〜豊臣秀吉や、千利休ら時の権力者に重用され、一躍時代の寵児となりました。〜
今年は、桃山絵画の巨匠、長谷川等伯(1539-1610)の没後400年にあたります。この節目の年に東京国立博物館25日間と京都国立博物館27日間で、 「長谷川等伯」 展を開催いたします。

2010年2月22日 :報道内覧会のご紹介です。

画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。

没後400年 [特別展]長谷川 等伯
2010年2月22日 :報道内覧会

展覧会概要  〜本文より要約して掲載〜
第1章. 能登の絵仏師・長谷川信春
等伯の生まれた能登奥村家と養家の長谷川家はともに日蓮聖人を篤く信仰し、等伯も熱心な法華信徒であった。おそらく養祖父、養父から絵の手ほどきを受けた等伯は、春信と名乗り、絵師として歩み始める。
長谷川 等伯《鬼子母神十羅刹女像》
重要文化財 《鬼子母神十羅刹女像》 長谷川等伯(春信)筆 富山・大法寺

信春の仏画は、画面の隅々にまで緻密に画き込み、繊細な装飾を施して、金、朱、青、緑など豊かな色彩にあふれるものとなっており、仏や神々が光り輝くほどにあらわされている。

第2章. 転機のとき―上洛、等伯の誕生―
都への移住、元亀二年(1571)、33歳の時、妻と幼い子息、久蔵を伴い上京する。もうひとつの転機、天正十七年(1589)千利休を施主とした大徳寺三門の障壁制作を要請され、また同寺の塔頭・三玄院の方丈にも水墨障壁画を描くことになったのである。
長谷川 等伯《牧馬図屏風》
重要文化財 《牧馬図屏風》(部分) 長谷川等伯(春信)筆 東京国立博物館

馬やそれを調教する男の描写、そして紺・緑・茶・赤・白の鮮やかな色彩を対比させた大和絵の技法を加味した 《牧馬図屏風》 は、武人を中心とした人々の生活の様子を描いたもので、近世初期風俗画の起源に位置づけられる。

第3章. 等伯をめぐる人々―肖像画―
上洛後、等伯と号した後も大徳寺の僧侶や上層階級の武将の肖像画を描いている。信春時代に描かれた仏画とも共通する細やかな描写がなされている。絵師として僧侶、武将、町衆と関わりを持ち、肖像画を手がけ、そして交流を重ねていったのであろう。
長谷川 等伯《春屋宗園像》
《春屋宗園像》 長谷川等伯筆 絹本着色 縦109.8 横49.5 京都・三玄院

京都の画壇にゆるぎない地歩を固めつつあった等伯は、仕事の幅を広げ、法華宗の僧侶だけでなく、三玄院住職の春屋宗園といった大徳寺の高僧と相対することになる。

第4章. 桃山謳歌―金碧画―
等伯は、天下人・豊臣秀吉からの作画命令を受け、わずか三歳で没した秀吉の愛児・鶴松の菩提を弔うべく創建された祥雲寺に、金碧障壁画を描くことになったのである。ここでは、その時に等伯が描いた障壁画(現・智積院)の中から「楓図壁貼付」と「松に秋草図屏風」の作品等を観る事ができる。
長谷川 等伯《波濤図》
重要文化財 《波濤図》(部分) 長谷川等伯筆 六幅 京都・禅林寺

純粋な水墨画に金雲を組合わせ、金と墨が見事な融合を示す「波濤図」等は、桃山時代の作らしい壮大なスケール感を堪能できます。

第5章. 信仰のあかし―本法寺と等伯―
等伯が生涯に渡り、篤く法華宗を信仰した証が本法寺に数多く遺されている。それらは、同寺第十世の功徳院日通(1551-1608)と等伯との深く永きに渡る交流によって生まれたものである。慶長四年、本法寺に 「仏涅槃図」 を寄進している。
長谷川 等伯《仏涅槃図》
重要文化財 《仏涅槃図》 (部分) 長谷川等伯筆 慶長四年(1599) 京都・本法寺

この巨大な涅槃図の裏には日蓮聖人以下の祖師たちの名、本法寺開山の日親上人以下の歴代住職、等伯の養祖父母や養父母、そして将来の長谷川一門を担うべく期待をよせていた息子久蔵たちの供養銘が記されている。等伯の篤い信仰と一族への祈りが込められた作品のである。

第6章. 墨の魔術師―水墨画への傾倒―
墨はほんのわずかな濃淡の違いや筆遣いの強弱によって、さまざまな表情を見せる。その無限の可能性をもつ素材に、等伯は強く惹かれたのであった。そうした背景には牧谿や玉澗、馬遠や夏珪といった、中国名家の作品を目の当たりにしたことが大きく関わっているものと思われる。
長谷川 等伯 《高士騎驢屏風》
《高士騎驢屏風》(部分) 長谷川等伯筆 四曲一隻 京都・高桐院

図には、柳の生える岸辺を驢馬に乗って進む四人の高士の姿が軽妙な筆遣いをもって捉えられている。おそらく大和絵を学んだ成果が本図のごとき水墨画にも反映されている。

第7章. 松林図の世界
深い霧の中にほのかに浮かび上がる松林。手前の松ははっきりとその姿が確かめられるが、奥に向かうにつれ霧に遮られて松の姿は次第にぼやけ、やがてシルエットと化してしまう。
長谷川 等伯 《松林図屏風》
国宝 《松林図屏風》 長谷川等伯筆 六曲1双 紙本墨画 16世紀
東京国立博物館蔵


等伯芸術の頂点をなす 《松林図屏風》 は、彼による和漢双方の学習成果が高次元で融合したことは間違いないものと思われる。


松嶋雅人 (東京国立博物館特別展室長) 〜本文より要約して掲載〜
長谷川等伯の正体 ― 絵仏師・信春 ―
応仁の乱後、長く続いた戦国の世に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら天下の覇権を競望する錚々たる武将が次々と登場した。多くの武将がしのぎを削ったこの時代には、軌を一にするように、狩野永徳、海北友松、雲谷等顔ら巨匠と呼ぶに相応しい数多くの絵師があらわれ、画壇においても熾烈な競合が繰り広げられた。そのような時代に長谷川等伯は生まれ、絵筆によって一閃を放った。
等伯は能登七尾(現在の石川県七尾市)に生を享け、はじめ信春と名乗り、絵仏師として寺院の仏事に掛けられる仏教絵画―仏画を描いていた。やがて三十歳代になって能登から上洛し、絵師として本格的に活動しはじめた。等伯がたどったその道程は、順風満帆なものではなかった。当初は長く厳しい雌伏の時代が続いたようだ。後に等伯最大のライバルとなる狩野永徳は、室町時代から連続と続く絵師の名門・狩野一族の御曹子として、幼いころから英才教育を受け、画壇に磐石の地盤を築いていた。それに比べると、等伯は地方から出てきた一介の絵師であり、京都では何の足がかりもなかった。名門の出でもなく、確かな後ろ盾があったわけでもない等伯が後に天下人・秀吉にとり立てられ、一躍、永徳をも凌ぎ「天下画工の長」へと昇りつめたのである。一代で築き上げたその地位はまさに絵筆で成しとげた下克上だといえよう。そこに至るまでの数々のエピソードで飾られた等伯の波瀾万丈の人生は、現代においても人々をひきつけて止まない。……

山本英男 (京都国立博物館美術室長) 〜本文より要約して掲載〜
長谷川等伯、天下を取る ― 上洛後の二十年 ―
狩野永徳は元信を祖父に、宗家を継いだ松栄を父にもつ生まれながらのエリートであり、若くして足利第十三代将軍・義輝のために「洛中洛外図屏風」を制作、また織田信長の命で安土城に揮毫したこともあった。信長が本能寺に倒れて以後は秀吉の寵愛を一身に受け、大阪城や聚楽第、天瑞寺などの大がかりな障壁画制作を軒並み手掛けたことが知られるその点でいえば、地方の絵仏師から成り上がった等伯とは全く対照的な人生を送ってきた絵師であったといえよう。…
等伯一門による障壁画は、家康の時代に土地・建物ごと新義真言宗の智積院に授けられて今に至る。その間、二度の火災と盗難によってかなりの数が失われたが、それでもなお大小合わせ五十を超える面数が残されている。ところで、これらの障壁画はいずれも鳥を一切配さない金碧の花木図であることが大きな特徴となっており、等伯筆の「楓図」「松に秋草図」「松に黄蜀葵図」には巨大な樹木を画面構成の基軸とする大画方式も試みられている。こうした主題や画面構成が取られた背景には、どうやら施主である秀吉の意向が強く働いていたようだ。…
永徳の描く巨木が激しい律動感を持って観る者に迫ってくるような印象を与えるのに対し、「楓図」や「松に秋草図」の巨木はむしろ穏やかであり、巨大なわりには威圧感は少ない。それはおそらく樹木表現それ自体の違いとともに、巨木の周辺に愛らしい草花を所狭しと充填したことに起因するであろう。…
ともあれ、祥雲寺の障壁画制作における等伯の最大の課題は、狩野派のそれとは異なる新たな金碧画様式を披歴することにあった。もし狩野派のそれと大差ないスタイルで描いたとしたら、新参者である長谷川派の存在価値は途端に薄れてしまうからである。天下人の命で壮大極まりない建物を荘厳するという栄誉は、一方で長谷川派の存続すら左右しかねない重大事でもあったのである。そして等伯は見事にその課題を克服したといってよいだろう。感嘆の声を挙げる秀吉の姿が見えるようである。…
京都に移り住んでから二十年。一介の地方絵師から身を起こし、天下人の御用を収めるまでになった等伯の生き様は、まさにジャパニーズ・ドリームを地で行くものであったといえよう。都での活躍を夢見て七尾をはなれたにしても、まさかこれほどトントン拍子に画壇の頂点に登り詰めるとは、周囲はもとより、当の本人ですら想像だにしなかったに違いあるまい。……

お問合せTel:03-5777-8600(ハローダイヤル)
展覧会ホームページ:http://www.tohaku.400th.jp/
東京国立博物館ホームページ:http://www.tnm.jp/
主催:
東京国立博物館、毎日新聞社、NHK、NHKプロモーション
(主催:京都国立博物館、毎日新聞社、NHK京都放送局、NHKプラネット近畿)
後援:文化庁
特別協賛:大塚家具
協賛:大成建設、日本写真印刷

参考資料:「没後400年 長谷川等伯」図録集:Press Release、他。
※写真撮影は全て、主催者の許可を得て行っております。


ご意見ご感想は yashio@mui.biglobe.ne.jp


「アイ・エイ・アイ」:IAI
HOME
NEXT
BACK

Copyright © 2002-2010 Yashio.ALL Rights Reserved.